ディスクシステムとは?
 大任天堂帝国の幕開け
 1983年7月15日、ゲーム業界へ衝撃を与えるニューマシンが発売になった。

 「任天堂ファミリーコンピュータ」

 それまで知名度の低かった家庭用ゲーム機市場を一気に一般的なものにし、
世界中に爆発的に普及していった歴史的な名機である。
 それと同時に中小玩具メーカーであった任天堂を世界的大企業に押し上げた
スーパーマシンである。

マシンが普及していき、ゲーム開発へ向けて参入メーカーが次々と名乗りを
挙げた。各メーカーはユーザにゲームソフトを購入してもらうため、しのぎを削り
ゲームソフト開発を行った。
 一方、ユーザはもっと楽しい、もっと大容量のゲームをメーカーに求めていく。
このころの日本は半導体技術の発展途上であったため、空前の半導体不足に陥っていた。

 ゲーム業界においてもこの問題は深刻で、データを格納するROM(Read Only Memory)の不足や、ゲームのワークエリア
として使用するRAM(Random Access Memory)の供給不足が広がっていた。

 本来、主にこういった半導体が使用されるのはパーソナルコンピュータ向けで、そのパーソナルコンピュータ用製品すらも
供給できない状態で、ゲームなどに回ってくる半導体は、遥かに供給量に届かなかった。

 そこで任天堂は新たなるゲームの記憶媒体を模索し始める。ICカード方式、光ディスク方式、磁気ディスク方式・・・。

 ICカード方式はコストが掛かりNG、光ディスク方式は技術的に困難である、磁気ディスクドライブは構造が難しいため
壊れやすくコストも高い。打開策がないまま任天堂は頭を抱えていた。
 そんな中、1984年夏、ミツミ電機(株)栗原哲夫(当時調布事業所第三事業部長)は、
同社がコンピュータ向けに開発した小型ディスクドライブ装置
「クイックディスクドライブ(QuickDiskDrive。以下QD)」を任天堂へ持参した。

 自社でコンピュータを製造していない同社は、OEM供給用として開発したQDの販路を拡大しようと奮闘していた。
 当初見込んでいたコンピュータ向けへの普及がなかなか進まず苦戦しており、なんとかファミコンの周辺機器として採用してもらえないだろうか、と任天堂へ詰め寄った。
 任天堂としては好都合だった思この展開だが、任天堂は非常に厳しい条件をミツミ電機に提示した。

 「販売価格を15,000円としたい。」

 コンピュータ用として60,000円で販売されている製品を1/4以下の価格で供給しなければならない。

 任天堂はこういった購買意欲をそそる絶妙な価格設定が非常にうまい。

 ファミコンを発売する際もファミコンの設計元であるシャープ、CPUの開発元であるRICOHへ量産を約束し、破格の提示をしているのである。

 常識的に考えて到底受け入れ難い条件だが、窮地に追い詰められていたミツミ電機にとって考える余地はなかった。
       
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